40歳からのブログ SWの日常

ソーシャルワーカー備忘録。いわゆる雑記。

私が祖母に毎年耳にタコができるほど聞いていた戦争の話

先に自分の立場を明確にしておきますが、私は何を肯定するものでも否定するものでもありません。あくまでもひとりの亡き沖縄人のいち女性から伝え聞いたことをそのまま記載するものです。

私は毎年、夏になると沖縄に住む祖母の家に夏休みのほとんど滞在した。私の祖母は私と同様に持病のせいで祖父に離婚された過去を持つが幼いころの私はそんな祖母の思いはしるはずもない。

祖母が大好きだった私は毎年祖母の家で1ヶ月を過ごすのだが、毎年苦痛な時期が数日あった。それが、8月15日の終戦記念日だ。この時期は、山形屋というデパートの催事場で「沖縄展」らしき、終戦時の写真やら文章やらの展示があったのだ。毎年、私は祖母に無理やりつれられ空爆の写真など見たくもない戦時中の写真を毎年見せられた。

数年後、祖母は若狭から浦添に居を移したため、山形屋までバスを使わないといけなくなった。私はその年はこれから行かなくて済むのか・・・とほっとしたくらいだ。戦争はよくないとわかりながらも、毎年、沖縄に行くたびに戦争の話を恨み節半分にきかされる小学生もかわいそうなもんだと当時の私は祖母のその風習だけ嫌がっていた。

しかし、基本ガンコな祖母は浦添に引っ越しても毎年の山形屋通いを止めることはしなかった。それどころか、その時期を外して沖縄に来るようになった私についに説教をするようになったのだ。

祖母は大好きだし、中学生にもなった私は仕方なく終戦記念日を避けることなく祖母の家に遊びに行くことにした。

すると、祖母は山形屋に行ったあと初めて私に、祖母の戦争観を私に話し始めた。

祖母は、戦時中は母と祖父と祖父の両親とで暮らしていた。しかし、日本人がいきなり沖縄にやってきては傍若無人な態度をとり恐怖で縛られる日々を過ごしていたそうだ。特に歴史に名高いアメリカ軍の沖縄上陸の際は、日本人は、沖縄人が作った防空壕に隠れる沖縄人を追い出し自分たちが助かるため中に入り込んできた。祖母はその光景を絶対に忘れないと言っていた。私は恐ろしくなった。

祖母は日本人を許してはいない。日本人が勝手に始めた戦争に巻き込まれ、あげく日本人のために死んだ仲間と生き残ってしまった自分を毎年、毎年思い出しているのだ。そして日本人と沖縄人の間に生まれた私を毎年山形屋につれていく。そして、ついには、日本人が沖縄人にした仕打ちについて何時間も私に訴えるのだ。

私は逆に沖縄の歴史を知ることが怖くなり、戦時中の歴史を学ぶことは辞めてしまった。祖母の考えが間違いだったとしても正しかったとしても目の前で日本人に沖縄人を犠牲にされたときの祖母の心は間違いないだろう。

祖母はもう10年前に他界してしまった。山形屋もその姿を変え、今ではその催事場ではお笑いライフなどをやっているようだ。

私は戦争がどう悪くてどうしたらなくなるのか、そうしたことを伝えるつもりはない。でも、加害者としての日本人を忘れずにいることやこうした祖母の思いを自分の子供に伝えまたその子に伝えることは、祖母の思いをつなぐという意味で大事なことなのだと思う。

戦争をしらない私たちが日本の人口のほとんどを占める時代はもうすぐだ。戦争経験者からその口でその有様をきけるうちに聞いておくことはとても大切なことだとこの季節になると必ず思うことだ。